「陸遜の一番大切なものってなんだ?」
昼の日差しが指し込む執務室、紙に筆を走らせていたこの部屋の主、陸遜は唐突に投げ掛けられた質問に顔を上げた。
見つめる先には椅子に腰を下ろした蜀の将軍、趙雲の姿があった。
趙雲は椅子に背を預け、ぼんやりと天井を見つめている。
陸遜は口を開く。しかし何かを言う前に閉じ、息を吐いてから再び開いた。
「なかなかの難問を投げ掛けますね」
「確かに」
趙雲はそう言って苦笑しながら陸遜の方を向いた。
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「なんで急にそんな質問なんですか?」
陸遜は筆を置いて趙雲を見つめた。彼の瞳を覗きこみ、真意を探る。
「…何と無くだよ」
そう言った趙雲の瞳は穏やかで彼が嘘を言っていないことは明白だった。
「では、逆に趙雲殿は一体何が一番大切ですか?」
問い返してみれば、趙雲は陸遜と同じように答えに詰まったようだった。
陸遜は何と無くその様子に安堵した。彼の答えが少し怖かった。「国」と言われてしまえば悲しいし、自分と言われれば嬉しい反面辛くもあった。
陸遜は静かに笑う。
「私は、大切なものは時と共に移り変わるものだと思いますよ」
陸遜の言葉に趙雲はそうかもな、と言って微笑んだ。
「じゃあ、今の陸遜にとって一番大切なものは?」
「またそういう意地悪な問掛けを…」
陸遜はあきれたようにため息を吐く。
「そうですね、この書類ですかね。明日までに仕上げなければいけませんから」
そう言って陸遜は自分の前の紙を指差した。
陸遜の回答に趙雲は声を立てて笑う。
「じゃあ、趙雲殿の大切なものは何ですか?」
少し頬を膨らました陸遜の問いに趙雲は笑うのをやめ、しばらく考え込んだ。
そして思い付いたように微笑むと、椅子から立ち上がり、陸遜へと近付いた。
趙雲は机越しに陸遜と向き合うと、楽しそうに陸遜を手招きする。
「?」
陸遜は訳が分からずとりあえず顔を寄せる。
すると近付いた陸遜に更に近付くように趙雲の顔が寄る。
ふと陸遜の唇に暖かいものが触れた。
いつも以上に近付いた愛しい人の顔。
一瞬真っ白になった頭。
陸遜が反応を取れずにいると、唇にあった温もりはゆっくりと離れていった。
「今は陸遜といる時間だろ」
微笑む趙雲の顔。
そこで陸遜は自分の身に起こったことを理解した。
相手の唇が自分の唇に重なった。
何日ぶりかの温もりに陸遜の顔に熱が上がってくる。
「な、なにするんですかっ!急に!」
「もっとする―――」
笑いながら陸遜をからかう趙雲の顔面に陸遜の手の平が直撃する。
「いい加減にしないと怒りますよ」
冷たい陸遜の目に趙雲はからかうのをやめた。
「ったく」
陸遜はあきれたように呟くと大きなため息を吐いた。
「すまん…」
真剣な表情で謝る趙雲に陸遜の眉間の皺が取れる。
「別に良いですよ」
陸遜が息を吐いて微笑むと趙雲も安心したように笑みを溢した。
「…仕事、やっても良いですか?」
陸遜が少し困ったように言うと、あぁ、すまない、と言って趙雲は机から離れた。
陸遜は笑みを浮かべたまま筆を取る。
趙雲はまた椅子へと戻り、部屋には再び静けさが戻った。
しばらく筆を走らせる音だけがあった部屋に陸遜の呟きが響く。
「趙雲殿、私もこの時間が大切なものだと感じます」
書面から顔を上げず呟いた陸遜を驚いたように趙雲は見つめた。
趙雲が微笑む気配を感じて、陸遜も口許が綻ぶ。
――大切なこの時間がいつまでも
そう願うことが無意味だと知っていても願わずにはいられない。
ただ今は、一瞬に感じるこの時を、一秒ずつ刻み込んでいこう。
END
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