鈴の音がした。
また甘寧殿が仕事をサボっているのかと思った。
今日こそは必ず連れ戻す、そう心に決めて音のしたほうを覗き込むとそこにはあなたがいた。
テノヒラ
鈴の音がした。
耳ざとくその音を聞きつけて陸遜は足早に進めていた歩みを止めた。
ぴくぴくとこめかみが痙攣する。
自分でも苛立っているのが分かった。内心、落ち着けと幾ら言い聞かせたところで、再び聞こえてきた鈴の音に陸遜はその音がするほうへ近付いた。
「甘寧殿!今日こそは・・・!!」
語調を強くして、眉間にしわを寄せて、陸遜は勢い良く建物の影を覗き込んだ。
「あ」
漏れる言葉。
思わず阿呆のように口を開けたまま見つけてしまいう。
そこにいた人物はそんな陸遜の様子に少し噴出した。
「あ、え・・・」
勘違い、そのことに陸遜は自分の頬が熱を持つのを感じた。
「趙雲、殿でしたか・・・」
建物の影、そこに片膝をついてかがみこんでいたのは、同盟国、蜀の将軍、趙雲だった。趙雲はいつもの柔和な笑みを浮かべた。
「甘寧殿は見てないな」
「あ、いえ、私の勘違いだったようで」
陸遜は慌てて頭を横に振る。
羞恥で顔が熱くなっていくのがわかる。
(恥ずかしい・・・)
りりん、と軽い音がまたする。
「鈴の音・・・」
気のせいだったのかと思ったその音は再び陸遜の耳に届いた。
「あぁ、こいつの鈴だよ」
趙雲のその言葉と共に彼の手から一匹の黒猫がすり抜けてきた。
猫は小さく泣き声をあげると小さく首を傾げた。
りりん、と涼やかな音が鳴った。
猫の首には大きな瞳と同じ金色の鈴が結わえ付けられていた。
「迷い猫だ」
趙雲が猫の額を撫でると猫がのどを鳴らす。
気持ちがいいのか目を細めて、頭を擦り付けるように甘えた仕草を見せる。
「猫・・・」
「あぁ、見当はずれだったな」
そう言ってくすくす笑う趙雲が至極楽しそうで、陸遜は少しむっとする。
(これもすべて甘寧殿のせいだな)
勝手な結論をつけて陸遜はとりあえず怒りの矛先を甘寧に向けておいた。
陸遜はしゃがみこむと猫に対して手を伸ばしてみる。
正直今まで馬以外の生き物を扱ったことがなく、どうすればいいのかは分からなかった。
しばらくすると、黒猫は差し出された陸遜の指に鼻先を擦り付けるようにして匂いをかぎ始めた。
陸遜が期待してそれを見つめていると、黒猫はふんとひとつ息を吐いた。
そして、軽い身のこなしでまた趙雲の手元へと戻っていった。
その様子を一部始終見つめていた趙雲が再び噴出した。
「ははっ、嫌われたな!」
手で猫の頭を撫でながら、けらけらと趙雲は笑い続けていた。
「そ、そんなに笑わなくても!」
猫に見捨てられて少々傷ついた陸遜としては、そんなに爆笑されるのはさすがに気分が悪い。
「す、まない」
口では謝ってみせる趙雲は結局笑みを隠しきれず、笑い続けていた。
陸遜はふてくされたようにもういいですと言って、自分を選ばなかった猫を見つめた。
黒猫は気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らしながら、時折細めた目で陸遜を見てきた。
なんと言うか、バカにされているような、そんな感じがした。
「よしよし」
趙雲も本格的に猫を構い始める。
趙雲の大きな手に頭を撫でられ、喉を鳴らす黒猫は至極気分がよさそうだった。
また、りりんと鈴が鳴る。
正直、
なんだか、
「羨ましい・・・」
思わず口をついて出た言葉。
声に出して、しばらくして、ふと陸遜は自分の言葉を理解した。
遅いなどということは分かっていても口を抑えずにいられなかった。
『失言』とはよく言ったものだ。
目線を上げれば驚いたようにこちらを見る趙雲としっかりと視線が合ってしまった。
慌てて目線をはずしてから、その奇妙すぎる自分の行動に陸遜は激しく後悔した。
「陸遜?」
「・・・・・・・」
名を呼ばれても恥ずかしすぎてもう何とも言えない。
視線を外した先、りりんと再び鈴が鳴るのがわかった。
またあの黒猫があの掌で撫でられているのかと思うと、やはりなんだか羨ましかった。
(何で猫なんかに)
心底自分が情けなく、それと同時にそこまで来ている自分がなんだか滑稽だった。
りりん・・・りりん・・・
そう呼ぶように鳴り続ける鈴に、恨めしい気持ちをこめて陸遜は視線を戻す。
そこには一匹の黒の猫が一匹座っているだけだった。
不満げに一声猫が鳴く。
次の瞬間、頭に感じる熱と重みに陸遜は心臓が跳ね上がった。
見上げれば斜め後ろに趙雲が同じようにかがみこんでいた。
「な、なにを・・・」
「羨ましかったんだろ?」
嬉しそうだ。なんだか物凄く嬉しそうだ。
趙雲は陸遜の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「ち、ちが―――」
「にゃあ」
陸遜の反論をかき消したのは不満そうな猫の鳴き声だった。
見れば黒猫は趙雲の足元まで寄ってきて甘えるように頭を摺り寄せていた。
なんだか、
バカらしいとは思うけれど、
腹立たしい。
猫の金色の目と会った気がした。
陸遜は尚も自分の頭を撫で続けていた趙雲の手を取った。
「陸遜?」
不思議そうにこちらを見つめる趙雲を必死に見ないようにして、陸遜はそっとその手の甲に唇を寄せた。
そして、ひとつ舌を這わせた。
明らかに動揺してびくりと震えた趙雲の腕を無視して陸遜はじっと足元の猫を見つめた。
猫はまたひとつ鳴くと軽やかに身を反転させ、さっと黒い影となり走り去って行った。
陸遜を支配するのはなんだか妙な優越感。
なにを猫に対して、とか冷静な自分が頭の奥底で訴えていた。
「陸遜・・・」
名を呼ばれ、陸遜はやっと趙雲の腕を掴んだままだったことに気がついた。
「あ、すみま―――」
謝りかけて陸遜は絶句する。
振り向けば当の趙雲は空いていたほうの手で口元を抑えていた。顔にはうっすらと朱が差している。
「あ、あの・・・!」
慌てて弁解しようにもどうしたものか。
必死でわたわたと言葉を紡ごうとする陸遜を余所に趙雲はすくと立ち上がった。
「無理だ・・・」
趙雲はそう呟くと陸遜を軽々と抱え上げた。
「わっ、え!?なんですか!?」
「あんな可愛いことされたら耐えられない」
はっきりとそう告げられて、陸遜は今更ながらに自分のした行動が招く結果をやっと理解した。
「ちょ、待ってください!!」
陸遜の叫びも空しく趙雲が止まることはなかった。
また、草陰でりりんと涼やかな鈴の音が鳴った。
END
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