天には月、地には風。
Watch onself
陸遜は一人夜風に吹かれ、外を眺めていた。自室の寝台に腰をかけ、荒れ狂う強風を顔に受ける。
昼とは違う匂いを運ぶ夜風を吸い込んで陸遜は立ち上がった。
「時間ですね」
月は天の真上まで来た。これが約束の時間。
陸遜は寝着のまま自室を出て、今まで眺めていた庭に出る。そしてそのまま身を隠すように陸遜は植木の茂る場所へと入っていった。
「趙雲殿・・・・」
そっと目的の人物を呼んでみる。が、薄暗い庭から返事はなかった。
まだ来てないのか、と一人呟き、陸遜は緑の草が覆う地面に腰を下ろした。ひやりと冷たい葉の感触を手の平に受けて、陸遜は一回身震いする。
しばらく膝を抱えて、目的の人物を待つ。夜、明りもないのでじっと月の光だけを頼りに庭を眺めた。
明りをつけないのには理由がある。誰にも姿を見られたくないから。
待ち人、趙雲と陸遜が恋仲になったのは少し前。それから二人は他人の目を盗むようにして、月が真上に昇った頃、庭で会っていた。
会ってただ何をするでもなく、些細な話題で盛り上がり笑いあうだけ。
(そんなことですら隠れなきゃいけないなんて)
胸中呟いて、陸遜は夜風にため息を乗せた。
その時、激しい荒風と共に一瞬陸遜の視界を影が走る。
趙雲が来たのかと思い、陸遜は立ち上がり付近を見渡す。
そしてまた視界の端で走る影。
影だけで、本体は捕らえられず、陸遜は茂みから出て行く。確かに影は呉の武器庫の方に向かっていったように見えた。
陸遜は疑問を覚える。それと共に一抹の不安も。
陸遜は荒風の中、その影の方を追った。
静かに音を立てないように陸遜は影の向かった方へ走っていった。
建物の角で、一旦足を止め、陸遜は先を伺い見る。
見た先には昼間と同じ呉の武器庫があった。呉の武器庫は幾つかあり、それは陣内に点在している。今陸遜が見ているものはその中でもあまり大きくない方の武器庫だった。
武器庫の前には、一人の男が立っていた。赤い鎧をまとった中肉中背の男。
男は辺りを見回してから、懐から取り出した鍵で武器庫の錠を開いた。ジャラジャラと重い音共に武器庫の扉を閉めていた鎖が落ちる。
男は黒くぽっかりと開いた武器庫の中に入っていく。その後、中で柔らかい明りが灯された。
陸遜はそっとその後に続くようにして武器庫の入口まで行く。幸い強い風の音で陸遜の足音は完全に消されていた。
武器庫の入口の横に付き、陸遜は中を覗いた。
そこには明りに照らされた男の背中が見えた。男は手に筆と木の板を持ち何事かを書き付けているようだったが、陸遜からは内容までは見えなかった。
話し掛けてみようかと考え、陸遜は一瞬躊躇した。赤の鎧をつけているからといって呉の兵士とは限らない。
陸遜は一歩前に踏み出す。
その時、ジャラと足元で重い音がした。扉を閉めていた鎖が陸遜の足にぶつかったのだ。
「誰だ!?」
男の声に陸遜は仕方なく武器庫の中に入る。自分の不注意さをひどく後悔しながら。
男がかざした明りに陸遜の顔が照らされる。それと同時に男の苦々しそうな顔も照らし出される。
「おまえ・・・・」
男の右腕が動くのが見えた。腕は腰元の剣の柄に伸ばされる。
陸遜は一歩後方に下がり、後方に置いてあるはずの兵卒用の剣を手だけで探す。視線は男から離さない。
「どなたですか?」
陸遜は平生を装い、口元に笑みを浮かべてみせる。
男は鋭く睨み付けたまま、腰の剣を鞘から抜いた。
男の体が動き、陸遜に襲い掛かる。
陸遜はその一瞬前に手に収まった剣の柄を握り締め、男の落ちてくる剣を受止める。
武器庫に金属のぶつかる嫌な音が響いた。
しばらくお互いに剣を押しやっていたが、男は一歩後方に飛び距離を置くと再び陸遜に襲い掛かった。
陸遜はそれも受止め、弾き返す。
男は体勢を崩すことなく、後方に下がった。
(なかなか)
そんなことを考えながら、陸遜は剣を握り直す。
また男がその場を踏み出し、陸遜に向かってきた。狭い武器庫、男が三歩も迫れば簡単に攻撃範囲に入る。
陸遜は男が自分に剣を向ける前に一瞬早く、剣を横に薙ぐ。しかしその剣は虚しく夜の闇を切るばかりだった。
一瞬視界から消えた男を見つけたのは陸遜の剣の下。男はしゃがみこんだ体勢から、突くように陸遜の顔を狙う。
陸遜は慌てて横に飛ぶが、少し遅く右頬に鋭い痛みを感じた。
陸遜はあまく見過ぎていたと後悔しながら、頬を伝う赤い液体を袖で拭った。そして剣の柄を強く、今まで以上に強く握り締めた。
陸遜の中で覚悟が決まる。
相手を殺す、覚悟。
自分で嫌になるほど陸遜は冷静になっていった。
男も陸遜も対峙しながら呼吸を整える。
男は剣を握り直すとまた陸遜に飛び掛った。
が、男の振りかぶった剣は陸遜には届かず、激しく地面を打った。金属の鋭い音が狭い武器庫内に反響する。 陸遜も、また男自身も驚いたように目を見開いた。
男の体がゆっくりと傾き地面に倒れる。男が陸遜に向けた背には一閃、深い傷が走っていた。そして倒れた男の背後から一人の男が姿を現した。
陸遜はその男の姿を認めて、安堵のため息を吐いた。全身に走っていた緊張が一瞬のうちに抜けていった。
「趙雲、殿」
陸遜はそう呟くと男の一歩後ろ槍を構えた趙雲を見た。
「大丈夫か?」
趙雲は槍を下ろすと、陸遜に尋ねる。
「あ、はい・・・・」
陸遜が言い終わる前に趙雲は陸遜に近づいてそっと頬に手を当てた。
「傷が」
「あ、お恥ずかしいことに油断していて」
笑いながらそう答える陸遜を見ていた趙雲の顔はどんどん険しくなっていく。
「ち、趙雲殿・・・・?」
陸遜が恐る恐る相手の名を呼ぶと、趙雲の鋭い目が彼を捉えた。
その目に陸遜の体が一回震えた。やはり蜀、五虎将の一人だと陸遜は改めて思った。
「あなたは・・・・!」
趙雲はそう強く言ったかと思うと一回息を吐いて、陸遜を引き寄せると強く抱きとめた。
陸遜はしばらく何が起こったのかわからず、ただ呆然と趙雲の肩越しに見える武器庫の入り口を見つめていた。
そして、すぐに我に帰る。
「あ、あのっ」
何をこんなところで、そう言おうとした。敵が血を流して倒れる武器庫でなぜこんな状態になるのか陸遜は理解できなかった。
陸遜はしばらく趙雲の腕を抜けようと暴れてみるが、力の差は歴然ですぐにあきらめてされるがままとなった。
「・・・・どうかしましたか?」
陸遜は仕方がなくとりあえず聞いてみた。
趙雲からの返事はない。
陸遜は小さく息を吐いて違う質問をしてみる。
「どうしてここに?」
「・・・・待ち合わせ場所にあなたがいなくて、探していたら刃の交わる音がしたから」
そう言われて陸遜は趙雲と待ち合わせしていたことをやっと思い出した。
「・・・・疲れた」
趙雲が耳元で呟く。
「なら離してください」
そう言ってみても趙雲の腕の力が抜けることはなかった。
(この者の報告に行かなきゃ行けないのですが)
陸遜はぼんやりそんなことを考えて、足元で倒れた男へと意識をやった。男がまだ浅く息をしている気配があった。
「陸遜」
「はい」
名を呼ばれ、答える。
「もう少し自重してくれ」
趙雲の声は真剣だった。低い声が直接鼓膜に響く。
「と、言われましても・・・」
一武将として、これぐらいの傷は当たり前なのではないだろうか?
そこまで出すぎた行為だっただろうか?
「剣の交える音にどれだけ・・・」
趙雲の呟きは、そこから先はため息と共に流れていった。
「失いたくない・・・」
その呟きはあまりにも小さく、低い声で、多分普段ならば聞くことの出来なかった声。
しかし、静寂の支配する夜、耳元で打たれたその言葉に陸遜は目を見開いた。
陸遜はそこで趙雲が自分の身を心配してくれていたことにやっと気がついた。
じんわりと胸に広がる温かさ。
人に心配される、それは陸遜にとってあまり馴染みのない人とのふれあい。
趙雲の腕に力が加わる。陸遜は少し背中に痛みを感じた。それでも嫌ではなかった。
「私は武人です。少しぐらい信用してください」
体を趙雲から少し離し、趙雲を見つめる。陸遜の目に映った趙雲の顔は険しいというより、悲しそうなちょっと情けないか顔だった。
「でも・・・」
くすぐったく、なれないこの感覚。
それでも。
「心配していただけて、すごく嬉です」
趙雲の胸に額を寄せ、顔が見えないようにして呟いた。
こんなこと恥ずかしくて、どうしたって顔を見ては言えなかった。
ふと背に手が回る気配がして、陸遜はそっと趙雲から離れた。
「この者の報告に行きますね」
「え、あぁ」
伸ばしかけた手を所在なさ気に宙に浮かべたまま趙雲は頷く。
では、そう言って陸遜は武器庫に趙雲を残しかけていく。
少し意地悪だっただろうか。
でも、多分あれ以上いればきっと自分は動けなくなってしまう。
陸遜は思いがけず胸に広がった温もりを確かめるように、胸を掴み、また駆ける速度を速めた。
END
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