その日はやたらと蝉が鳴いていた。
蝉時雨
床を蹴って二段飛ばし。
一気に階段を駆け上り、残りの三段を大股で飛び越した。とんと軽く最上段に着地し、目の前の扉を開けた。
扉の向こうから、昼の強い日差しと、耳にまとわり付く蝉の鳴き声。
「暑い・・・」
燦々と降り注ぐ夏の太陽の日差し。
額に浮かべた汗を手の甲で拭い、獄寺隼人はそいつを睨み付ける。
その白い光を受けて目の奥が痛んだ。
敵わない相手、そんなことはわかっていても敵意を向けることをやめることは出来なかった。
今年最高の暑さ、獄寺は今朝の天気予報の言葉を頭の中で反芻してみる。
その言葉は見事に的中した。
午前中から容赦なく降り注ぐ太陽の日差しに、人口密度の高い教室はあっという間に蒸し風呂状態となった。
一般的な公立の中学であるこの学校にクーラーなどと言う高価なものが付いているわけもなく、その場から逃げ出すようにして、獄寺は主であるツナと一緒に、昼休みになると同時に屋上へと避難したのだ。
屋上は意外と風が通り抜け涼しい。貯水塔が作り出す日陰に入れば人の多い教室よりは幾分かましな状態にはなる。
それでも暑いものは暑く、獄寺はうんうん唸るツナを見兼ねて冷たいものを買ってくると言って屋上を後にした。
「十代目!買ってきました!」
獄寺は出入り口から死角になった貯水塔の影を覗き込んだ。
満面の笑みを向けた先にあるのは、壁に背を預け座ったツナの姿だった。ただ、ツナは獄寺の言葉に反応を示さず、ぴったりと瞼をくっつけたまま小さな寝息を立てていた。暑さのためか、微かに眉根に皺が寄っている。
「十、代目?」
獄寺はゆっくり近づいてそっと顔を覗き込む。小さく名前を呟いてみてもツナは変わらず目を閉じたままだった。
そういえば昨夜は彼の幼い家庭教師にこってり絞られたとか何とか。
そのことを思い出して、獄寺はポケットに入っていたケータイを確認する。まだ、昼休み終了まで10分はある。
もう少し寝せておこうと、獄寺は彼の隣りに腰を下ろした。手に持ったコンビニの袋を横に放り出し、壁にもたれ掛かる。ひんやりとしたコンクリートの感触が気持ちよかった。
しばらく、汗で濡れたシャツをパタパタとめくり、風を送り込んでいた。さすがに、この暑さでは獄寺もばてそうになる。
(あっつー・・・)
どんなに呟いてみても、この現状を打開することは出来ない。理解はしていても呟くことは止められない。
買ってきた飲み物でも飲んで気を紛らそうと袋を手探りで探す。
「・・・!!」
獄寺はふと触れた感触に驚いて手を引っ込める。
見れば、袋のそばに投げ出されたツナの手があった。
しばらくそれを見つめて、やっと自分の手がツナの手に触れたのだということを理解した。
そして理解すると同時に獄寺は自分の心臓が急に一つ大きく跳ねたのを感じた。
少し汗ばんだ、細く小さいその手に思わず視線が縫いとめられる。小さく息を飲み込む自分に気づいて獄寺は頭を振った。
それでも一度頭を過ぎった感情は、未だ霧がかかったようにはっきりしなくとも、確かにそこに存在し続けた。
ツナから視線を引き剥がし、獄寺は買ってきたペットボトルのふたを開け、煽るようにして飲む。
喉をつめたい液体が通る心地よい感触。三分の一ほど飲み、息をつく。
ふたを閉め、ツナのほうを見ないように横に置くと、獄寺はじっと目の前を見つめた。
うるさいはずの蝉の鳴き声がどこか遠い気がして、それなのに微かなツナの寝息に過敏に反応してしまう。
気を抜けば、視線はツナを捕らえようと動いてしまう。
いっそ目を瞑ったほうが楽だろうか、そう考えて目を瞑り後悔する。視覚が遮断された代わりに聴覚が嫌というほど過敏に働いてしまう。
(あー、くそっ)
耐えられず、目を開ければすぐに視線はツナのほうへと走る。
自分のとは違う細い指、白い腕、細い肩。暑さのため第二ボタンまで開かれたワイシャツからは汗ばんだ肌が露になっている。
そっと少しだけ距離を縮める。
大きな瞳を隠す瞼、少し紅潮した頬に微かに影を落とす長いまつげは髪と同じ色でとても柔らかそうだ。
ふわりと吹いた生暖かい風。それに揺れる色素の薄い髪に獄寺は思わず手を伸ばした。
勝手に触るなんて、どこかで冷静な自分が叫んでいるが、それはとても聞こえ辛く、まるで蝉時雨に隠されているかのようだった。
伸ばした指先に毛先が触れる。予想通りの柔らかい感触。もう少し感じたくてゆっくりと指で梳くと、流れるように指の間をすり抜けていく。
「ん」
小さく唸ったツナに獄寺は慌てて手を引っ込めた。バクバクと心臓が激しく鳴る。
ツナは少し身じろぎしたあと、暑いのか眉間に皺を寄せ、また寝息を立て始めた。
獄寺は息をついて、そのまま手を下ろした。
ケータイを確認すれば昼休みはあと5分。起こしたものかどうか悩む。
「十代目」
小さく声をかけてみた。何度か同じ大きさの声をかけてみるが全く反応がない。
この暑い中、これだけ熟睡するというのは、それだけ疲れているということなのだろう。
(保健室、にでも連れてった方がいいか)
シャマルが寝かしてくれるかは分からないが、あそこなら確実に冷房は効いている。
(それでも一度起こさなきゃなんねーし)
どうするか悩んでいると、ツナの眉間の皺がどんどん深くなっていくのが分かった。次第にうー、うーと唸りだす。
(リボーンさんの夢でも見てらっしゃるのか?)
思わず顔を寄せて見つめてしまう。
獄寺がこれほど間近でツナの顔を見たのは初めてだった。
やはりまだ怖がられているというのもあるし、ボスである人物に必要以上に近づくことは憚られる気がしたから、獄寺は一定の距離を保ってツナと接した。
それが今、30センチの距離まで縮まっている。
自分の心音が耳にまとわり付いてうるさい。
なにをそんなに緊張しているのか自分でも分からない。
蝉の声が、自分の鼓動が理性を麻痺させ、上手く思考がまとまらない。
ふとツナの眉間の皺が緩む。そして、本当に小さな声で、多分獄寺がいつもの距離を保っていれば聞こえなかったほどの小さな声でツナが呟く。
「や、もと」
これほどまでに蝉がうるさくてもその言葉ははっきりと耳に入ってきた。
今まで蝉と争うように鳴っていた心音がぴたりと止む。
なにか重いものが胸から腹にかけて流れ込むような、奇妙な感覚。
その正体を獄寺は知っていた。
また、蝉がうるさくわんわんと頭の中に響く。
ゆっくりとした動作で俯き加減で寝ていたツナの顔を覗き込む。先ほどとは違い穏やかな顔で眠るツナにきしりと胸が軋む音がした。
距離は既に20センチ。
更に顔を寄せ、距離をつめる。
蝉の声で何もかも分からない。
ただ、感じるのは胸に渦巻く二つの感情。
もう、相手の寝息すら感じ取れる距離。
軽く触れた指先はツナの汗ばんだ頬を撫でる。
そして、鐘が鳴った。
蝉の声が距離感を取り戻すと共に鳴り響く鐘の音に獄寺の理性が働きだす。
触れていた手を慌てて離し、獄寺はその場から逃げるように立ち上がり数歩後ずさった。
貯水塔が作り出す小さな陰から飛び出した獄寺の体に夏の日差しが容赦なく照りつける。これが現実だといわんばかりに。
(何を・・・)
自問自答すれば簡単に導き出される嫌な答えがある。
「ん、・・・・あれ?」
重たそうに瞼を開けたツナが此方を見つめる。
未だ鳴り続ける始業の鐘。
「あ、俺寝ちゃってた・・・」
やばい!授業だ、そう言いながらツナは立ち上がると隣にあった弁当箱をつかみあげる。
「獄寺君?どうかした?」
不思議そうに此方に首を傾げてみせるツナに獄寺は一瞬言葉を詰まらせた。
「い、え、なんでもありません」
作った笑み。もしかしたら歪んでいたかもしれないが。
「授業行かないの?」
「俺ちょっと気分わりぃんで保健室行ってきます」
半分本音でそう言うと、大丈夫、と本気で心配され罪悪感が胸を締める。
「はい、なんで先行ってください」
「そっか。じゃ、放課後保健室行くから」
あまり納得はしていないような感じではあったが、ツナは弁当箱を握るとそのまま足早に屋上から姿を消した。
獄寺はツナの背中を見送り、そのまましばらく立ち尽くした。
ふと見るとコンクリートの床にコンビニ袋が転がっているのが見えた。
「しまった。十代目に渡し損ねた」
拾い上げればまだ少し冷たいペットボトルが一本入っていた。
袋を握り締め、獄寺はそのまま座り込んだ。
「馬鹿だ、俺」
理解してしまったこの感情に先ほど取った行動、どれも『部下』としては失格だ。
尊敬だと思っていた今までの感情。それが一瞬のうちに砕かれ、違うものへと姿を変える。
それは後戻りの出来ない変化。
「好きです」
呟いて消えてしまえばいい。言葉と共に空気になって消えてしまえばいい。
それでも、消えるわけのないこの感情。
だから、隠さなければ、ただその思いだけがあった。
消えぬなら、けして見えぬよう、悟られぬよう奥底にしまえばいい。
そうすれば、今までどおり傍にいられる。
また、蝉時雨が耳にまとわり付く。
獄寺は立ち上がると、その忌々しい音から逃げるように屋上を後にした。
END
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