声が聞こえた。
今にも泣き出しそうな声。
手を伸ばしてもその声の元には届かない。
その声は闇の中にいる自分を呼んでいた。
約束
意識が次第にはっきりとする。
重い瞼を持ち上げて、趙雲は心地良かった睡眠から意識を現実へと戻す。
声はもう聞こえない。
趙雲はしばらく寝台に横たわったまま、ぼやけた世界をずっと眺めていた。
寝台の右にある窓からは暗い東の空が見えた。まだ日の姿は無い。
趙雲は再び目を閉じて、窓の風景に背を向けるようにして寝返りを打った。昨日は仕事が忙しかったのでまだ少し寝ていたいと思った。
一度目をあけた。そこでぴたりと動きが止まる。
目が合った・・・。
趙雲の眠気が急激に失せ、視界の霧が晴れていく。
「り、陸遜・・・・・?」
趙雲は目に飛び込んできた人物の名を呼んだ。
「おはようございます」
趙雲の寝台の横に屈み込んでいた人物、陸遜は微笑みながら挨拶をする。
どうやら幻ではないらしい。
趙雲は慌てて起き上がると自分の周りを確認する。どう見ても自分の部屋だった。寝る前とは何の代わりもない。
ただ、陸遜がいること以外は。
「な、なんでここに」
驚いている趙雲を嬉しそうに眺めていた陸遜は満足したように一度頷くと、ゆっくり寝台へと上ってくる。そして、趙雲の首に腕を回し、抱きついてきた。
「陸遜!?」
陸遜の行動に趙雲は慌てた。
普段、甘えるような行動を取らない陸遜が自分から抱きつくなど天地がひっくり返っても無いと思っていたことだ。
そこで趙雲は気がついた、そんな陸遜からは酒の匂いがふんだんにすることに。
「・・・・飲んでたのか?」
「はい、さっきまで呂蒙殿と一緒に飲んでましたぁ」
『さっきまで』ということはどうやら一晩中酒を飲んでいたらしい。
趙雲は一つため息をつく。
「そうとう酔ってるな?」
「かもしれません」
そう言う陸遜の口調は異様に陽気だった。
どのぐらい飲んだのか、完全に泥酔状態の陸遜にいつもの判断力はなさそうだった。
「陸遜、部屋に帰れ。また明日から仕事があるんだろ?」
抱きついた陸遜を引き離そうとするが、陸遜の腕はしっかりと趙雲の首に巻きついたまま離れない。
「いやです!」
陸遜は即答する。
そんな陸遜に趙雲はまたため息を吐く。そしてもう一度陸遜に目をやる。
目に飛び込んできた陸遜の顔は赤く、目元も微かに赤かった。そして着物の襟元のあわせが大きく開いていることに気がついた。
一瞬、趙雲は自分の理性が大きく揺らぐのを感じた。それでもどうにか耐えて趙雲は再び陸遜に自室に帰るよう促した。
「ヤです!」
「陸遜」
諭すように名を呼ばれても、陸遜は断固として動かなかった。
酒には強いと本人から聞いていた趙雲はまさかこんな事態になるとは思いもよらなかった。このまま力ずくで追い出すことも出来たが、出来ればそれは避けたかった。それでもこのままここにいられると自分の理性が保つか分からない。
趙雲はまた大きくため息を吐いた。
その様子を見ていた陸遜が口を開く。
「・・・・趙雲殿は、私のこと嫌いですか?」
唐突な問いに趙雲は閉口した。
「なにを・・・」
「嫌いですか?」
陸遜はじっと真剣な瞳で趙雲の顔を覗き込んでいる。
「嫌いなわけ―――」
「じゃあ、抱いてください」
趙雲の頭が一瞬真っ白になる。再び活動を始めるまでに数秒。
「えっ、あぁっ・・・・!?」
やっと意味を理解し趙雲は再び慌てた。頭の中が混乱して上手く言葉が出ない。
次第に陸遜の顔が趙雲に近付く。
既にお互いの鼻がぶつかりそうなぐらい近い。陸遜の整った顔、長いまつげ、すべてのものが今まで以上に接近してきた。
「陸遜っ!!」
趙雲は寸前のところで陸遜を引き離す。このまま口づけをしてしまえば理性が動くかどうか分からない。
「趙雲、殿・・・・?」
少し驚いたような表情の陸遜。
趙雲は陸遜に負けないぐらい顔が赤くなっていた。
「やっぱり、嫌い、なんです、か・・・・?」
今度は趙雲の顔が青くなった。
陸遜の目から流れるのは涙。大粒の涙が次から次へと蒲団の上に落ちていった。
「陸遜、どうしたんだ!?」
趙雲が聞いてみても陸遜は答えず、ただ泣き続ける。
強いはずの彼が始めて趙雲に見せる涙だった。
「どうして急にそんなことを?」
趙雲はまず自分の気持ちを落ち着け、静かに威圧的にならないよう気を付けて言葉をかける。
「不安、なんです」
「不安?」
「会う時間少ないし」
子供のように泣きじゃくる陸遜を趙雲は優しく抱きしめる。
「好きだ、陸遜」
趙雲が耳元で呟くと、陸遜は趙雲の服をきつく握った。
「・・・・趙雲殿」
かすれた泣き声。
それを聞いて趙雲はやっと理解した。
眠っている趙雲を呼ぶ者は確かにいた。それは陸遜で、酔った勢いで趙雲の部屋に入り、ここで自分を呼んでいたのだ。
「趙雲殿、お願いがあります」
そう言うと陸遜は趙雲の耳元に口を寄せ、何事かを呟く。
趙雲はその言葉に一瞬驚くが、直ぐに微笑んだ。
「約束する」
趙雲のその言葉を聞くと、陸遜は安心したように笑みを浮かべて、趙雲の胸に顔を埋める。しばらくすると陸遜の寝息が聞こえてきた。
「愛してる、陸遜」
趙雲はそう呟くと唇で軽く陸遜の額に触れる。
窓の外、日は昇っていた。
End
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